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 江戸切子の歴史

江戸切子の歴史

江戸切子は数ある切子の中でも歴史が途絶えなかった伝統あるガラス工芸です。薩摩切子は、薩英戦争などで一度途絶えたのに対し、第二次世界大戦の戦災で江東区の工場は、壊滅的な被害を受けましたが、生き残った職人たちが、現在のHOYAの前身などを中心に、日本のガラス工芸を復活させるなど、工芸的に重要な役割を果たしています。
硝子の歴史は古く、古代ローマのプリニウスが言及するほどです。しかし、近代的な工芸と言えば、やはり、15世紀以降のベネツィアで起こった動きでしょう。火事や、技術の流出を防ぐために、一つの島(ムラーノ島)に職人を集めて生産したガラスは、今も高級品です。日本でも焼成炉は弥生時代からあったといわれていますが、実用品は1549年ザビエルがキリスト教と共にガラス製品を持ち込んだのが始まりです。

江戸切子の歴史を社会的動きを踏まえて書き記すと、以下のようになります。一段下がった部分は社会の動きです。東京、薩摩の動きを中心に書いてあります。

1834(天保5年) 江戸伝馬町のビイドロ屋加賀屋久兵衛が創始
(この時の将軍 第十一代徳川家斉)
          1841 天保の改革
1846 薩摩藩、江戸から四本亀次郎を招聘。ガラス細工を始める。
          1853 ペリー来航 この時加賀屋久兵衛に切子瓶を注文
          1854 日米和親条約調印
          1855 安政の大地震
          1858 日米修好通商条約、日英修好通商条約、
日仏修好通商条約
          1859 初の英国公使ラザフォード・ウォールコック氏来日。品川に到着。グラバー氏来日。
          1860 桜田門外の変
          1861 文久遣欧使節
          1862 寺田屋事件 多数の攘夷派殺される
               生麦事件 島津の大名行列を妨害したかどでイギリス人数名が切り殺される。主犯は後に切腹。
          1863 薩英戦争 薩摩藩イギリスに大敗。薩摩切子大きな打撃を受ける
               流れた職人たちが江戸切子の工房に入ってくる
          1864 池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)
          1866 薩長同盟。長州藩、桂小五郎 
薩摩藩小松帯刀、西郷隆盛
          1867 パリ万博、坂本竜馬暗殺(近江屋事件)、王政復古の大号令(大政奉還)
          1868 鳥羽伏見の戦い
               上野戦争 幕府方彰義隊壊滅
               江戸、東京になる
               西郷、勝の会談により、江戸城への攻撃中止、のち無血開城
               明治に元号が変わる
1873  明治政府の令により品川興業社硝子製造所が作られる
                 この年ウィーン万博に日本が初参加。切子も出品される
1881  お雇い外国人エヌマエル・ホープトマン(英)来日。カット、グラヴィール技法を日本人が取得する。 
        この年東京で火事が頻発する。神田の大火
      
           1934 各務クリスタル創設
           1941 真珠湾攻撃を経て、太平洋戦争勃発
                戦争が激化すると、職人たちは疎開したり、航空機や
船などの軍需産業に駆り出された
この年HOYA創立(その時の名は東洋光学硝子製作所)
            1945 東京大空襲 ポツダム宣言
                 GHQ マッカーサー着任
                 進駐軍は銀器、江戸切子などの工芸品をお土産に購入。工房が発展する。
            1964 東京オリンピック
 1985 江戸切子、東京都伝統工芸品の認定を受ける
 2002 江戸切子 経済産業省伝統工芸品の認定を受ける

 元々の江戸切子は透きガラスであり、薄く黄色みを帯びた姿をしていました。その当時のガラス製品は、御世辞にも耐久性があるとは言えず、壊れやすかったといいます。現代の日本のガラスの端はイギリス人技師ホープトマンの功績が多大にあります。
明治時代になると、建築の建具が障子やふすまなどの従来の物から、ガラス製のものに変わるようになりました。これは、洋風のものを見よう見まねでまねた偽洋風建築と呼ばれた建物によく使われました。そういったガラスの需要にこたえる素地となったのが切子職人の持っている加工技術でもあったのです。
加賀屋九兵衛は加賀久とも呼ばれ、江戸切子の創始者として今も慕われています。