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 薩摩切子とは

薩摩切子とは

薩摩切子は全国に散らばるカットガラスの中でも、大変謎の多い切子だといえます。実際に継続して作られた期間は二十数年と大変短いガラスですが、独特の色合い、それを引き立てる精緻なカット、薬品にも耐えうる上質のガラスは諸外国のカットグラスに勝るとも劣らないものです。しかし、藩主に納入するなど、それなりの数が作られたはずの品々は点数としては多く残っていません。
藩主の交代、薩英戦争での工場嚢崩壊、幕府から明治政府への政権の移行などのあおりを受け、一時断絶してしまったこの硝子は、1985年、多くの人の努力によって復刻されました。

薩摩で切子が作られるようになったきっかけは、多角的な産業経営であったといわれています。当時薩摩藩は、盛んであった薬草栽培を生かし、製薬業を営もうとしていました。藩主は、島津斉興。紡績や軍事など多くの事業を経営する集成館事業と呼ばれる洋式の産業形態を南端の薩摩で起こそうとしたのです。
主な背景には、アヘン戦争以来の欧米諸国の中国、および、薩摩の配下にあった琉球への流入への警戒、富国強兵、殖産産業と謳った動きがあります。これは財政の悪化を懸念する家臣と衝突を産み、のちに由羅騒動と呼ばれる家中の争いに発展します。
もともと薩摩が関ヶ原で負けた敗軍の藩であり、完全な外様であったため、幕府に対抗する力が必要だったこと、桜島の噴火などで、土地があまり穀類を作るのに向いておらず、藩外の貨幣を収入にしていたことなども、薩摩で産業が育ちやすいことの一因になっていました。
薬を作るのには、硫酸などの化学薬品に負けない硝子瓶が必要でした。一説には、長崎で手に入るビイドロで事足りたとも言われますが、実際に薩摩藩は、耐久性の高いガラスを製造することに成功しています。これには、1846年に江戸より招聘された四本亀次郎という人物が、大いに貢献しています。
薩摩切子の特徴は、分厚い色着せの層を生かしたぼかし加工や、繊細な彫りです。特に赤い紅硝子は、大変な苦労をして作りだされたもので、蘭学者たちが数百回実験を繰り返したそうです。他に藍や、緑、紫などを使っていたようです。
薩摩藩のガラスはカットガラスが主力で、藩主の贈り物などにもされていましたが、大変高額であっただろうと推測され、現在は多くは残っていません。そのため、製法など詳細が分からない部分が多くあります。
色きせの技法は、坩堝から巻き取ったのか、あらかじめ色ガラスを成形してから素地と張り合わせたのか、調べる必要があります。長らく、部分手摺りで、他は回転盤などによる研磨だろうといわれてきたカット面にも、回転盤加工に特徴的な痕跡がないこと、分厚く光を通さない色硝子の表面を数年しか修行をしていない人間が当時の轆轤で研磨できたのかといった視点、残った資料などから、江戸切子と同じく、手摺りであったのだろうという論議がされています。